「山下泰裕」から言われた衝撃の一言
小学生の時に会ったことがある「山下泰裕」さんを思い出しました。
小学生の時、近くで講演会があったので、柔道教室の仲間と講演会に行ったときの話です。
何を話したかはもう覚えていません。そんな事より、とにかく山下さんのサインが欲しかった和多志は、講演会を少し早く抜け出しました。
会場を出ると、タクシーが一台停車。これを見て、幼いながらに「これに乗るんだな」と察して待ち構えることに。
サインをもらうために必死だったので頭はフル回転。正直、講演会なんかどうでもよくて、サインが欲しかった。
しばらくすると、階段から降りてきました。会場にいた人は、山下さんが退場するのを拍手で送っているので、こちらには誰も来ません。いぇーい!!
ラッキーです。独占状態。
満を持して「サインください!」と言うと衝撃の一言が返ってきました。
「ごめんね。それはできない。君にサインをあげたら、後から来た人にもあげないといけない。気持ちは分かるが、諦めてくれ。私はもう行かないといけない。柔道頑張るんだぞ。応援しているぞ」
と全く予想していなかった言葉が返ってきました。「何があったんだ、山下泰裕!!ちっちぇこと言うなよー」って感じでした。←すいません、これは当時思っていません(笑)
その後、すぐにタクシーに乗り込み会場を後にしました。
会場にいる数百人の柔道少年が来たらマズいことは分かっていましたが、一人にサインをするのは5秒あれば終わること。自分だけは「絶対にサインをもらえる」と確信していただけにショックは大きかったです。
「何でこっそりサインしてくれなかったんだろう?誰もこのことは知らないから、自分も欲しかったと悔しがる人はいないのに」みたいなことを感じていたと思います。
あれから約20年くらい経ってたまたま同じ場所に行くことになり、サインをもらえなかったことが急にフラッシュバックされました。何であの時、夢に満ち溢れた柔道少年に対してきっぱり断ったのか?
今思うと、一見冷たい態度のように思えるかもしれませんが、山下さんのブレない信念があったのかもしれません。何の迷いもなく、断ったのはそうとしか思えない。
「本当の優しさ」とは何なのか?
人に気づかれないようにするのが本当の優しさ、本当の親切。
島田 洋七
がんばれっていう優しさもがんばらなくていいよという優しさも両方学んだ。
小林 真央
ほかの人にやさしくできる人は、感謝されなくたって、そうすることができるんだ。
ベンジャミン・フランクリン
「優しさ」とは、いろいろ人によって定義されているけど、「本当の優しさ」とは何だろう?考えていて思ったのが、
相手の気持ちを理解しようとして寄り添うような「抱きしめる優しさ」と相手の成長を願って後ろから「背中を押す優しさ」。そして、そこには「執着がない」、「見返りを求めない」純粋な慈愛の心なのかなと。
「こんなにしてやってるんだから」、「何かお礼やお返しをされて当然」みたいに見返りを求めるエゴの強い人はいます。幼い時から、母によく「見返りを求めるんじゃないよ」と言われてきました。母は偉大なり。
「純粋な慈愛の心」とは、「我をなくしてその人のことを想って働きかけること」と言えるかもしれません。
そうはいっても、人間なら誰しもそのような感情を抱くことはあります。だけど、自分にブレーキをかけて「そうじゃないよな」という想いが頭の片隅にあるだけで「本当の優しさ」を体現できるようになると思います。
根底にあるのは「魂の成長」
世の中の風潮として、「事なかれ主義」が蔓延しています。ある意味、緊急事態宣言を出すくらいのレベルです。
「事なかれ主義」とは、物事に対して、波風が立たないように対応すること。変化を嫌ったり、平穏を望むあまり何もしない方がいいという考えです。和多志からしたら、「何をビビっとんや、ぶっとばすぞ!!」って感じです(笑)
特に、教育現場でもよくあることです。「この内容だと不安を持つ子どもが出てくるのでは?」、「フラッシュバックして辛い思いをするのでは?」という議論があるようです。
しかし、何かを主張すればそれに該当する人は必ず出てきます。例えば、「体に良い食事」について話をしたら、体に悪い食事を取っている人が出てきます。「結婚の良さ」について語れば、両親が離婚をして悩んでいる人の心を傷つけるかもしれません。
でも、情報化社会の中では、我々が言わずとも目に触れる機会は必ずあります。「思春期」という人生を大きく左右する時に言うことがどうなのかという主張もあるでしょう。
「ある程度の配慮」は必要ですが、「しないこと」が本当の優しさでもないように思います。たとえ本人にとって辛い内容であっても、いつかは乗り越えて自立しないといけない。
今はできなくても、この先イキイキと幸せに生きてほしい。
だから、リスクは多少あっても「背中を押す」。
「失敗しない」、「苦しまない」ようにすることが大事ではなくて、直面した困難や用意された人生の課題に対して、どう取り組むか。
「目に見える成果」だけを追い求めると「事なかれ主義」に陥ります。”失敗”も、”苦しみ”も全て人生で貴重な経験。もっと言うと、「魂の成長」には必要なんです。
話は戻って、20年前に山下さんが和多志に言ってくれた”衝撃の一言”が、今ここに繋がるとは思ってもいませんでした。
”言葉”や”行動”はいつか時間をかけて必ず影響を与えます。やっぱり人生で起こることは全て必然。
こういう事があるから、人生楽しんだよな〜
最後までありがとうございました!
コメント
コメント一覧 (4件)
『「目に見える成果」だけを追い求めると「事なかれ主義」に陥ります。”失敗”も、”苦しみ”も全て人生で貴重な経験。もっと言うと、「魂の成長」には必要なんです。』
この考え方非常に勉強になります。何のためにこの地球に来ているのか。それが少しずつ見えてくるだけで、本当にこの世界は面白いです。
今ここに起こる出来事すべてを楽しめたらいいですね。
どうしても人は、目に見えるもので判断し、感情が動き、そこに囚われてしまいます。
「目に見える成果」の追求は、世の中も人も窮屈になっていくと思っています。
しかし、その視点から外れてより大きな視野で物事と向き合っていくと楽しくなれるのかなって。
明るく楽しく、なんくるないさ〜
「我をなくしてその人のことを想って働きかけること」
本当の優しさで人に接することは、なかなか難しいですね。子育てを通して、我が子と一緒に成長していきたいです。
「意見を伝えること」と「我を貫き通すこと」は違います。自分の正義と思っていたことが、いつしか「我」であったことはよくありますよね。
人間だから仕方がないと思います。みんなが我をなくして、お坊さんみたいになるのは難しいですから(笑)
だけど、「あっ、そうだった」と氣づける人間になりたいといつも思っています。