先月の12月上旬に、2回目の「すずめの戸締まり」を観てきました〜
映画館で同じ映画を2回観たのは、人生初でした(笑)
入場者特典のプレゼントも第1弾、2弾があったら行きますよね。
ちなみに、第3弾もあるらしくて、そこまでしたら「ちょっと、う〜ん」ってなります。。。
さすがに、3回目は観に行きません(笑)
第1弾の新海誠本に関する記事は、こちらを見られてください。
2回目を観に行って、「すずめの戸締まり」の考察もまた再編集したのでそちらもどうぞ。
それでは、原菜乃華&松村北斗からの5つの質問とRADWIMPS野田洋次郎さんのスペシャルインタビューのまとめと和多志の感想です。
① 草太の父は教師
草太は隔世遺伝で閉じ師としての素質をお祖父さんから受け継いでいる。草太は素質があるからお祖父さんに閉じ師として育てられたんだけど、その分、父親と早くに引き離されているので、教師である父親への憧れみたいなものがあり、閉じ師をやりながらも教師になりたいという気持ちを抱えている、という設定です。閉じ師という職業が特殊なので、観客とどこか接点になる部分がほしいと思って、教師を目指していたり、実は大学生であったり、御茶ノ水あたりにアパートがあったりというギャップを入れていったんです。
観客とどこか接点となるところを探しているのが、さすがですね!
伝えたい本質的な所は絶対にブラさずに伝えていて、それだけだと本質的なところまで行きつかないし、伝わらないこともあるので、いかに観る人の視点に立つか。
細かい所まで考えて構成されていて、本当にすごいの一言です。
② なぜ5日間という短い時間にしたか?
最初は意識せずに脚本を書いていったんですが、書き終わったときに逆算して数えてみたら自然と5日間になっていたんです。5日目と書いたときに、あぁこんなに短い話だったんだって自分でも思いました。ただ、そうであっても鈴芽はその中でさまざまな経験を重ねて成長もして、人生においては確実に必要で重要な5日間でもあったんですよね。草太が東京の上空で要石になってしまって、地下に落ちた鈴芽が翌朝早くボロボロの状態で地上に出て、草太を助けに行くと決心して東北へ旅立つじゃないですか。そこまでの時間って、考えてみたら12時間くらいの話なんですよね。でも、ほんのわずかな時間でしかないはずなのに、脚本や小説を書いているときも、鈴芽と草太が会えなくなってもう何日も経っているような気持ちに自然となっていたんですよ。今思えば、大事な人と離れ離れになっている時間は、たった数時間であっても何日にも何週間にも感じられてしまう、といったことをやりたかったんだと思います。
「君の名は。」でも、三葉と瀧くんが会えない時間がありますよね。
会えない時間があるからこそ、再会した時に心にグッとくるものがあります。
離れる時間というのをあえて作っていて、だからこそ、好きな人に会った時の感動ってありますよね〜
新海さんは、恋心を分かっているんだろうな(笑)
それから、お話の設定としては、9月の話なんですよね。真夏の盛りは過ぎて、だけど秋も深まらないくらいの時期なんですが、旅の途中で見る田んぼや草木の色が九州のほうはまだ緑が濃いのが、東北のほうに行くにしたがってだんだん黄色く色づいたり茶色が混ざってきたりという、ちょっと季節の移ろいを感じられる描写も入れています。それもあって、映像を見ていてもずいぶん長い時間が経っているように感じられるかもしれないですね。
映像が綺麗で実写と変わらないようなクオリティーなのは特徴的ですが、「体感時間」まで意識して作られているとは。。。
いろんな仕掛けがあって、人々を魅了する作品となっているんですね!
③ ダイジンが環さんに乗り移った理由
要石のサダイジンとダイジンは地震を封じるのが役目だけど、彼らだけではそれは果たせなくて、人との共同作業で「産土」と呼ばれる土地の神様を鎮めなければいけない、という世界観なんです。この作品ではミミズがその産土ですが、サダイジンたちだけでは鎮められないから、鈴芽に手伝ってもらうために「人の手で、元に戻して」って言うんですよね。
「人との共同作業」という世界観だったんですね。
映画を観ていて出てきた言葉の中でも、「人の手で、元に戻して」という言葉が印象的でした。
神様がしてしまえば簡単ですが、それでは意味がない。最初から神様に頼むのではなく、「地球人」でなんとかするんです。そして、宇宙人に頼んで変えることでもない。やるべきは「自らの手で元に戻す」ことだと思います。結局、誰かがやってくれる、救ってくれるでは変わらないし、そこに本当の学びや魂の成長はありません。今や、当たり前の言葉になっていて、ある意味力を失っているかもしれませんが、「ひとりひとりが意識して行動すること」がやはり大切なんだと再認識しました。
映画考察の記事で和多志が書いていた文章です(以下、緑のチェック欄は考察記事に書いていた内容)。
やはり、ダイジンは敵か味方か分からないような設定でしたが、うまく鈴芽たちを誘導し、世界がより良くなるように導いていたんですね。
大切なことは、我々が真に目覚めて、意識して、行動することなんです。
一方で、それを託される鈴芽は環との関係を彼女自身の問題として抱えていて、環も環で、実の娘ではない鈴芽との生活の中で、口には出さないけど疎ましさや葛藤にさいなまれている。お互い笑顔で生活はしているけれど、どこかもやもやしていて、それが鈴芽を足止めしてしまっているんです。サダイジンは、そこにあえて踏み込んで、問題を解決させて鈴芽を前に進めさせるために、環の中に入り彼女に本音を言わせるんですよ。それに応じて鈴芽も本音をぶつけて、そのことで互いに傷つきもするけれど思いを交換し合えて、その結果、鈴芽はもっと大きな人間全体の問題に向き合うことが出来た。そういう流れを作るために、サダイジンは環に乗り移ったんです。そんなショック療法のような手段を使わなくても、鈴芽と時間を掛けて話をして解決していったのかもしれないですけどね。いい質問でした(笑)
環さんが話している時、誰かに乗り移られた表情をしていて、結果的に言わされたことが分かります。このようにして、神様(高次元の存在)は、人に変化したり、行動したり、言葉をコントロールしたりすることがあります。環さんは本音をぶつけて一見、鈴芽にとっては辛いことだったかもしれませんが、前に進むきっかけになったのは間違いありません。我々が氣づかないところでサポートしてもらっているんですよ〜。自分にとって、プラスと思えた人や言動、反対に不都合だと感じる場合もあると思います。良い悪いは当人にとって理解できないかもしれませんが、実は神様から後押しをしてもらっていたのかもしれませんよ!
考察というのは、「その人が感じて察したこと」なので本当かどうかは分かりませんが、かなり一致してましたね(笑)
新海さんの「いい質問でした」という言葉の裏には、「とても大切なことで、本質的なメッセージによく氣づいてくれたね」というのが真意だと感じます。
「神様、高次元の存在が乗り移っている」と考えると、良いことも悪いことも「天は見守っていて、応援されている」という感覚になると思うんですよ。
高次元からメッセージを受け取った経験を記しています。
そういう意識がある人というのは、「人生で起こることに対して、良いとか悪いとかジャッジしない」のかもしれません。
これをスピリチュアルな考え方と言うのかは分かりませんが、これこそがスピリチュアルな視点の凄さだと思うんです。
人を強くするし、幸せにする。そして、その人の人生を輝かせる力を持っている。
こういう考え方って、いろんな人が言っているし、氣づいている人もいると思います。
だけど、そのような考えを”スピリチュアル”と括るのではなくて、「普通の一般論、人生論としてあってもいいのかな」と考えています。
そういう想いがあって、和多志はこうやって文字にして、言葉として発して、行動を起こしています。
新海さーん、このブログを見ていますか〜?
いつか対談しましょう!!
想いはいつか届く!!(笑)
④ 焼きうどんにポテトサラダを入れた理由
あれはちょっとびっくりするようなメニューにしたいなと思ったんです。夜中に焼きうどんを食べたくなることってあるじゃないですか。スナックで一生懸命働いたあとで、きっとみんな炭水化物を食べたいんだろうなって焼きうどんにしたんですが、そのトッピングとしてインパクトのあるものを出したいと思ってネットで”焼きうどん トッピング”とか検索して(笑)そうしたら、ポテトサラダって出てきたんです。意外に美味しいって書いてあって。僕は試してないんですけどね(笑)『君の名は。』では瀧くんになった三葉がお弁当を忘れて、友達の司と高木が卵サンドにコロッケを挟んだ卵コロッケサンドをくれたりして。何か簡単な工夫をしてみんなで食べるみたいなシーンが好きで、映画の華になるかなと思って入れてるんです。今回は検索結果を活かしたものになりました(笑)
めちゃくちゃ面白い裏話!!
ネットで検索したらポテトサラダが出てきて、それを映画に取り入れるとは、遊び心と人間味があっていいですね(笑)
「新海さんはやったことがない」ということも笑えました(笑)
「君の名は。」にもそのようなシーンがあったなんて、見る視点が新たに増えて楽しくなります。
これは、なかなか聞けない裏話でしたね〜
⑤ 椅子が三本脚になっている理由
「なぜ脚が三本しかないの、、、?」と尋ねる草太に、鈴芽は椅子を一度失くしていて、「見つけたときには欠けちゃったの」って言いますよね。本人はよく覚えてはいないけれど、家が津波で流されたときに、脚が一本欠けてしまったんです。だから脚が三本なのは震災の傷の象徴であり、お母さんが亡くなってしまったという鈴芽の心の傷の象徴でもある。その三本脚の椅子をずっと抱えたまま旅をしていくわけですが、三本足であっても椅子になった草太は立つことが出来る。走ることが出来て、鈴芽がその上に座ることも出来て。鈴芽自身もそうですが、欠けたままの心であっても生きていけるんだっていう映画にしたかったんです。
椅子が四本脚になるということをやらない映画にしようと思って。足が欠けたままの椅子=草太が駆け抜けていく映画にしたいなと考えたんです。最後、鈴芽が小鈴芽(幼少期の鈴芽)に椅子を渡すじゃないですか。そこでどういうセリフを言わせるかは、ずいぶん悩んだんですよ。初期の段階では、小すずめが「お母さんにもらった椅子なのに脚が一本欠けちゃってる。これじゃ座れないよ」と泣いてしまって、それに対して鈴芽が「三本足でもきっと立てる」みたいなことを言って渡す、という流れも考えていたんです。「あなたは何かが欠けてしまっているかもしれないけれど、きっと立てるよ」と。でもちょっと難しくなりすぎるかなと思って、「お姉ちゃん-だれ?」と小すずめに聞かれた鈴芽が「私はね、・・・鈴芽の明日!」と答える、もっとグッとシンプルな形にしました。
「行って帰る」話を作るのだ。日常から出発し、そこから最も遠い場所(死)まで行き、また日常に帰ってくる。そのことによって日常の確かさを確認する。遊園地でジェットコースターに乗って、地上に足を降ろすとホッとするあの感覚。エンターテイメントで死に接近することで、自分は生きていて良かったと思える。スズメの旅が終わり、観客が映画館から出た時に、その生がすこしだけでも昴揚するといい。そういう映画を作りたい。」
新海誠本より引用
ある意味、人はいつも”死”と直面する中で生きています。
そして、椅子の脚が一本欠けているように、誰しもが悲しみを抱えていたり、トラウマがあったりする中で生きている。
「そんな状況下でも、『生』を実感して、前に進んでいってほしい」という新海さんのメッセージが伝わってきますね。
⑥ 野田洋次郎「新海さんの根っこは変わっていない」
仕事への取り組み方みたいなところは一貫していて、僕から見た新海さんの印象は変わらないですね。自分の作りたいものに本当に実直で誠実な人だな、と。音楽に関しても、とにかく精密で精緻に針の穴に糸を通すような事細かい指示があって。他の作画や美術といったすべてのことにも同じ深さで潜って指示を出しているんだなと思うと、想像を絶しますね。僕はあまり他人に影響を受けないんですが、新海さんの姿勢を見ていて、ものづくりの仕事をするからには限界なんか自分で作る必要はなくて、そもそも限界なんかないんだなって伝わってきて。その姿勢を知って、作品にご一緒するたびにさらに刺激も受けて、より密で近い結びつきが強く出来ていった気がします。
やっぱり、これを読んで思うことは、「本当の自分を表現する」って大事なと思いました。
新海さんは、自分というのが何者かを客観視していて、「どうしたいかのか」ということを素直に映画に転換しているんだなと感じました。
だからこそ、細かい所まで氣が行き届くし、こだわりも自然と出てくるんでしょうね。
新海さんのやりたいことっていうのは、根っこでは変わっていない気がするんですよね。自分自身も感動させるための要素というか、新海さんにとっての人間や世界の美しさは変わらない。ただ表現の仕方と手法の選択肢はより広がっていて、深度みたいなものも毎回毎回、増していて。ひたすら感心します。今話したようなことは僕自身にも当てはまるのかなと思っていて、本当に描きたいことって実はそんなにたくさんあるわけではないんですよね。ただ、例えば自分が何かを美しいって思う感覚や、何か哀しいって思う感情を自分でももっと知りたいっていうところで、どんどん表現を重ねている気がして。だからよけいに、音楽の選択肢としても新海さんになるべく多くのものを提供したいとは思っていて、今回もそれを考えながら臨んでいました。
和多志も同じ感覚があります。
やりたいこと、伝えたい本質ってそんなに多くなくて、行き着く所は同じ内容だと思っています。
和多志の場合でいうと、「みんながこの地球社会で氣づきや学びがあり、少しでもより良い人生を歩んで輝いてほしい」というのが根本的なゴールです。
あくまで、そのきっかけ作りや背中押しという存在になりたいと思っています。
ブログの内容は「スピリチュアル」、「人生」、「社会」、「教育」、「映画」、「本」、「健康」、「神社・パワースポット」と様々なジャンルですが、ゴールは同じです。
「ただ表現の仕方と手法の選択肢はより広がっていて、深度みたいなものも毎回毎回、増していて」という部分が印象的でした。
伝わる人もいれば、伝わらない人もいる。
受け手は様々なバックグラウンドを持っている中で、「いかに発信側がいろんな事象に目を向けて引き出しを増やすか、深さを増すか、言葉を選ぶかということが大切なのかな」とブログをしていて感じています。
あなたの”根っこ”は何でしょうか?
そんなことをゆっくり考えてみても、いいかもしれませんよ〜
これで、感想は終わりです!!
やっと書き終わった〜!!やり切った!!
「頭に想っていることが文字になれば楽だなぁ」と思うことがあります(笑)
たまに自分の書いた記事を見直すと、「よくあんな文章を書けたなぁ」と思うことがあります。
学生時代は別に国語力があった訳でもないし、文章を書くことは好きではなかったし(笑)
きっと目に見えない力が働いていて、応援してくれているんだと思います。
思うというか、確信しています。
最後までありがとうございました。
コメント
コメント一覧 (4件)
新海誠さんと対談!!夢は大きいですね!
伝え方や表現方法は多岐に渡っても、根っこは同じ、本質が大事ですよね。手軽に世界中の人と様々な方法で繋がれるようになり、知識・情報の海に誰でも手軽にアクセスできるようになった今、”中身”の重要性が大きくなっているということに氣づかされました。私も自分の根っこはどういった部分なのか、今一度考えてみたいと考えています。
夢はでっかく、やることコツコツです💪
本質的なことか、真理かどうかという視点は大切ですよね。
”知識・情報の海”となっているインスタグラムは、ちょっと自分の領域とは、、、と思うところがあります。
本質的ではなく、知識の寄せ集めになってるような感じがして😂
やっぱり、インスタライブなのかな〜🤔
集客には必須でブログとは違ったスキル習得や学び、ご縁もあるので辞めずに継続したいと思います。
「本質」や「真理」を見つける方法は様々ですが、ソクラテスは問答法(産婆法)という方法を提案しています。誰かと、ある意見について批判的に質問し合う。それに対する答えや反論を行うことで、主張や意見の頑強性(Robustness)が高まり、真実に近づいていくというものです。(真理を導き出す助けをする/してもらう様子が産婦と産婆の関係に似ていることから「産婆法」とも呼ばれます。)
他にも「WHY」の質問を大事にするということも重要ですよね。数学の公式を沢山覚えても、それが「何故」成り立つのかを理解出来ている生徒とそうでない生徒では入試での応用力に明確な差が出る。これが「本質」を掴んでいるか否かの差であると思います。
「情報の海」から得たものを如何に批判的に検討し、何故その情報が正しいのか(あるいは誤っているのか)を問うことが、この情報社会において「自分の芯」を保って歩むことの必要条件であり、それが近代科学以降の「思考」の基礎です。
カズさんと違って「騙されている」人々はそれを見失っているのではないか、と考えてしまう今日この頃です。
産婆法の話を初めて聞きました🌟
愛さんが言うように、「なぜ」の追求が本質に辿り着く手がかりになると思います。
そして、「本当にそうなの?」という思考回路です。和多志は、ブログで想いを発信していますが、「本当にそうなの?なんでそう言えるの?何が言いたいの?」と自問自答しています。
その過程を経ずに、アウトプットするのとしないのでは、雲泥の差になりますね。
結局、何が正しいかなんて誰にも分からないので。
本当に世の中、「騙されている」人は多いです。真理に氣づいて、本質を見極めないと同じ繰り返しです😥
言い方は良くないですが、「思考停止」していて、「為されるがまま」の人が多くいると思ってしまいます。。。
自らの意志で氣づくかどうか。それ以外、方法はないですね。そのためには、出逢いも大きな要素ですし、普段の心の持ち用で変わっていく氣がします。