「すずめの戸締まり」でもらった【新海誠本】を読んで感じた”3つ”のこと

今回の記事は、公開当日にもらった「新海誠本」の内容です。

新海誠監督の映画制作に込められた想いも知ることができて、良かったです。

最近、書いた記事の内容とシンクロしてました〜

「すずめの戸締まり」の考察はこちらを見られてください。

「すずめの戸締まり」への想い

本作では物語の基本的な役割を忠実に果たしたいと思う。「行って帰る」話を作るのだ。日常から出発し、そこから最も遠い場所(死)まで行き、また日常に帰ってくる。そのことによって日常の確かさを確認する。遊園地でジェットコースターに乗って、地上に足を降ろすとホッとするあの感覚。エンターテイメントで死に接近することで、自分は生きていて良かったと思える。それが物語の素朴で基本的な役割だし、僕たちのシンプルだけど難しい仕事だ。スズメの旅が終わり、観客が映画館から出た時に、その生がすこしだけでも昴揚するといい。そういう映画を作りたい。

「日常から出発し、そこから最も遠い場所(死)まで行き、また日常に帰ってくる。そのことによって日常の確かさを確認する」

「生」を突き詰めて考えると、「死」を意識する。

真に「死」を考えると、「生」を意識する。

「生」と「死」はいつも隣り合わせで、「死」に触れたとき、「生きていて良かった」と幸せを感じます。

「死」は「生」を鮮やかにする。

映画を通して、恐怖や悲しみと向き合いながらも鈴芽は成長していきます。

最後の言葉である「行ってきます」という言葉には、「日常の確かさを確認する」といったホッとした幸せを感じれる瞬間でした。

そして、心が”愛”で満たされて「さぁ、前に進もう!」という感覚になりました。

毎日、生きていると悲しいことや辛いことに直面することがある。

そして、避けることのできない感染症や天変地異を待ち構えながらある意味、生きている。

そのような中でも、生を実感しながら毎日を生きていきたいものです。

「悼む」という行為で終わりから始まりへ

場所を悼むという発想はそのとき急に思いついたものではなくて、ずっと自分の中にありました。ちょっと大げさな話になりますが、そもそも日本という国自体が、ある種、青年期のようなものを過ぎて、老年期に差し掛かっているような感覚があったんです。舞台挨拶で全国のいろいろな場所を周ったり、あるいは田舎の実家に帰省したりしたときにも毎回感じていたんですが、かつてはにぎやかだったのに今は廃れてしまった場所を目にすることが増えました。そのたびに疑問に思っていたのが、何かを始めるときは地鎮祭のような祈とうの儀式をするけれど、何かが終わっていくときはなぜ何もやらないんだろう、ということだったんです。人にはお葬式があるけれど、土地や街にはない。じゃあそれらを鎮めて祈ることで悼む物語はどうだろうという考えが、ここ何年かずっと、自分の中にあったんです。

「何かを始めるときは地鎮祭のような祈とうの儀式をするけれど、何かが終わっていくときはなぜ何もやらないんだろう、ということだったんです」

「人にはお葬式があるけれど、土地や街にはない。じゃあそれらを鎮めて祈ることで悼む物語はどうだろうという考えが、ここ何年かずっと、自分の中にあったんです」

新海誠さんの中にあった素朴な疑問が映画の根底になっているんですね。

やはり、新海誠監督はこれから迎える大変革期を予感していて、「終わりから始まり」に向けての準備をして新時代を迎えるということを伝えたかったのかもしれません。

先日の記事で、亡くなった方には黙祷という儀式をするけど、今生きていて辛い想いをしている人に対してはしないことに触れましたが、逆の発想という点でシンクロですね。

「何かが少しずつ終わろうとしている中で、我々に何ができるのか?」を再認識させられました。

自分の中にあるものを磨き続けて、全力で放つしかない

『君の名は。』を作ったときにいろいろな人からたくさんの声をいただいて、観た人の何かを作品が変えてしまうこともあり得るんだと実感したんです。ほんのわずかだとしても、誰かを変える力というのは大きなものじゃないですか。自分たちの作る作品にもそういう力が宿り得るんだとしたら、それはやっぱりなるべく美しいこと、正しいことに使いたいなと思うんです。とはいえ自分は政治家じゃないから、何が正しいのかを合議制で導くことは出来ません。だからせめて、少なくとも自分が正しいと本気で信じられる方向にその力を使いたい。世の中はエンタメが溢れているし、送り出されるスピードも消費されるペースもますます速くなっているのだから、たった一つの映画に対してそんなに難しく考えなくてもいいのかなとも思うんですよ。でも、「まあこのくらいでいいか」という気分で、一本の長編映画の制作を乗り切ることは僕たちは難しい。だからエンタメであっても、自分の中にあるものを磨き続けて、全力で放つしかない。結局はそこに尽きるんだと思います。どれだけ思いや考えを尽くしても、観客はこちらの事情には冷徹で無関心です。桜が人間社会の混乱とは無関係に咲き続けることと同じように、観客の感想だけは作り手にはコントロール出来ないんです。それでも、僕たちは同じ時間を生きている。どこかに通じ合う通路があるはずと、願い続けるしかありませんね。この映画が、すこしでもたくさんの人と良い出会いをしてくれればいいなと願っています。

「ほんのわずかだとしても、誰かを変える力というのは大きなものじゃないですか。自分たちの作る作品にもそういう力が宿り得るんだとしたら、それはやっぱりなるべく美しいこと、正しいことに使いたいなと思うんです」

人を変える可能性を持っていることに氣づいて、それなら周りを正しい方向に導くことに力を使いたいとのこと。

新海誠監督は凄い方ですが、この人に限らず、発言や行動というのは少なからず誰かに影響を与えます。

その影響力というのは、人によっては違うかもしれませんが、みんな持っているものです。

和多志の今の仕事は誰かに教える立場であり、ブログを通して不特定多数の人に発信もしています。

良くも悪くも誰かに影響を与えることになるし、ほんのわずかだけど誰かの背中をそっと押しているのかなと思っています。

「みんなの人生が少しでもより良くなってほしい」と思って発信しています。

「世の中はエンタメが溢れているし、送り出されるスピードも消費されるペースもますます速くなっているのだから、たった一つの映画に対してそんなに難しく考えなくてもいいのかなとも思うんですよ。でも、「まあこのくらいでいいか」という気分で、一本の長編映画の制作を乗り切ることは僕たちは難しい」

「自分の中にあるものを磨き続けて、全力で放つしかない。結局はそこに尽きるんだと思います。どれだけ思いや考えを尽くしても、観客はこちらの事情には冷徹で無関心です。桜が人間社会の混乱とは無関係に咲き続けることと同じように、観客の感想だけは作り手にはコントロール出来ないんです。それでも、僕たちは同じ時間を生きている。どこかに通じ合う通路があるはずと、願い続けるしかありませんね」

これらの考えもすごく共感できます。

あまり深く考えて悩みすぎてはいけない反面、簡単に妥協もできないという一面もある。

実際、世の中には「スピリチュアル」や「人生」の内容を発信している人で溢れかえっています。

正直、「自分が発信したとしても似たようなことは世の中で言われているし、そんなに深く考えなくてもいいのでは」と思うことはよくあります。

でも、発信する以上は考えを整理して、より良いものを伝えていきたいと思っています。

「自分の中にあるものを磨き続けて、全力で放つしかない」

この言葉に尽きますよね。

和多志が発信していることは、正しいのかどうかは分かりません。

「自分の意見は、正しくないかもしれない。でも、今の時点で考えている真理を思いっきり伝えたい」という考えがいつもあります。

自分の考えを疑いもせず、自分が正しいと思い込んで押し通すことはいけませんが、それでも試行錯誤しながら磨き続けて現時点で正しいと思うことを全力で放つしかありません。

そして、放った結果というのは、どうなるか分からないし、こちらにはコントロールできない。

こちらでコントロールできないことは、そこに意識を向けすぎない。

「宇宙の計らい」にお任せするのが一番です。

これぞ、人事を尽くして天命を待つ

和多志の人生の中で、大事にしている言葉の一つです。

「それでも、僕たちは同じ時間を生きている。どこかに通じ合う通路があるはずと、願い続けるしかありませんね」

先日のブログで「祈り」や「想い」について書きました。

新海誠監督が言っているように、同じ世界で生きて同じ時間を共有しているのなら、どこかで通じ合うことができます。

想いは必ず一度放たれると、水の波紋のようにして遅かれ早かれいつか届きます。

実際に、想いを込めて記事を書いてみんなの心に届くように祈って投稿しました。

そしたら、「祈りを捧げました」と数人の方から心温まるコメントをいただきました。

嬉しくて嬉しくて、感動。

ブログを見てくれた方から、「祈っておきます」とLINEも来ました。

結果はどうなるか分からないけど、全力で放って信じるしかない。

出逢いに感謝です。ありがとうございます。

ブログを通して、もっとこのような素敵な方達と繋がりたいと思いました。

そういう人、もっと見てください!

Googleよ、もっと反応してくれ(笑)

まぁ、慌てずコツコツと続けていきますわ。

今日は、無事に人生初の講演会が終わりました!!

「いろいろな氣づきがあった」と言っていただいて、良かったです。

これを機に、活動の幅をさらに広げていきます。

とりあえず、講演会が終わったので次はInstagramを始動します!

講演会のことは、また後日アップしまーす。

今日も最幸な一日でした。

最後までありがとうございました。

この記事を書いた人

カズのアバター カズ ブロガー

現役高校教師が学校では教えてくれない内容を発信。人生、教育、スピリチュアルなど、あなたの人生がより輝ける生き方・考え方を紹介します。真理に氣づき、学びあり、ワクワクありの輝かしい地球人生を送ることを願っています。

コメント

コメント一覧 (4件)

  • 「死が生を鮮やかにする」
    確かにそう思います。死について考えることで初めて生を真剣に考えられるようになりますよね。心に刺さる言葉でした!
    カズさんは人に物事を教える立場の方なんですね!過去の記事でも教育について熱く語っていらっしゃいますし、学校の先生とかなのかな…??カズ先生の授業、受けてみたいかも!!
    講演会、無事に終えられたようで安心しました。次回、講演をなさるときは、このブログで告知されてはいかがでしょうか?私を含め、このブログの読者はカズさんのお話を聞きたがっていると思いますよ!
    今日も最幸の一日でした!

    • そうですね、アドバイスありがとうございます!
      次回は、同じ内容で別の場所でしようと思っています。
      ブログで告知してみます。
      今日も素晴らしい一日になりますように✨

  • 「生」を感じる。難しいですよね。
    天下万民のために反乱を起こした大塩平八郎は陽明学者でした。彼は自決する前に、養子に取った息子に次のように語ったみたいです。「私が幕府に楯突いて、ここまで大きな謀反を起こしたのは、幕府に窮状を訴えるためでもあるが、それよりも万民に生きるということを訴えたかった。生きるとはただ食べて寝ることでは無い。欲を満たすことでは無い。日常の些細なことの中に、自分の存在を見出すのだ。そうすれば、どのような時勢でも自身は輝いていれる。自分が輝けば、周りも輝けるのだ。」(私の記憶の中の言葉なので、多少の脚色もあると思いますが……)
    私はここで大塩平八郎の語る「生きる」ことと「生」は同じだと感じます。私達は「生」を意識することで、自分の見える世界も、そして周りも輝かせる事ができると、大塩平八郎も自身の命をかけて訴えたかったのでしょう。

    • 大塩平八郎、すごい。。。
      「生きるとは何か」を伝えたかったんですね。
      いろんな伝え方があると思いますが、後世まで受け継がれる話です。
      日本史の授業で、こういう話が学生の時に聞きたかったな〜
      おくしんさんの歴史の話、勉強になります🙇‍♂️

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